たまりば

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2012年02月29日

成田達輝コンサート3 月1日よりチケット先行発売開始

 世界的に権威あるフランスのロン・ティボー大会で準優勝したヴァイオリニスト成田達輝のコンサートが、2012年11月4日(日)に、14時より東京都渋谷区富ヶ谷にあるHakuju Hallで行われます。

 弱冠19歳の成田達輝は、現在海外在住ですので、なかなか日本で演奏を聴くことができないため、今回のコンサートは貴重です。

 明日から、先行発売されます。ヴァイオリンがお好きな方は、この機会をお見逃し無く。

 成田達輝は、私の実姉である澤田まさ子の生徒です。

 姉は、現在札幌で「澤田まさ子音楽教室」を開いております。

 私は、ピアノもヴァイオリンももう殆ど弾けませんが、音楽の教員でヴァイオリンを愛した父親の技術を、姉弟5人の中で唯一受け継いでおります。
 
 札幌在住の方で、このブログをお読みになり、ヴァイオリンを弾けるようになりたいと思っている方は、お気軽に「澤田まさ子音楽教室」へお声かけ下さい。

平成24年2月29日(水)
 清野充典 記

(平成23年1月1日より毎日更新中)

※3日に一度「清野鍼灸整骨院府中センターです」を更新しています
※最新最先端の鍼灸治療・東洋医療について、詳細に書いています
※東洋医学の適応範囲をお知りになりたい方は、是非ご一読いただきたく存じます
  


Posted by 清野充典  at 01:50Comments(0)澤田まさ子音楽教室

2012年02月28日

東京マラソン2012 にはり治療ボランティアブース

 東京マラソン2012のゴール地点である東京ビッグサイトの東6ホールで、東京都鍼灸師会が「ランツボ・はり ケアステーション」と題したブースを設営して、ボランティア活動をしました。

 2010・2011には、10㎞のゴール地点である日比谷公園内で行っていましたが、東京ビックサイトで行うのは初めてです。

 運営は、東京都鍼灸師会理事である岩元先生が中心になって行いました。

 岩元先生は、清野鍼灸整骨院府中センターの初代院長です。

 岩元先生と記念撮影をしました。

 ランナーは、まず受付をして、ゼッケンナンバーを書き込んだ後、自分の症状やアンケートに答えます。

 そのあと、待合室に相当する椅子に掛けて順番を待ちます。

 料金は、ボランティアですので無料です。

 東京都鍼灸師会の会員約60名が、診療に当たりました。

 ご覧のように、多くの方が並んで待っていました。ゴールしてきたランナーが、次々と訪れます。

 用意した椅子に座りきれないほどです。

 鍼治療の人気が高いことが良く解りました。

 痛みに対し、鍼灸治療は有効であるという認識が高いという裏付けと言えます。

 外国人も多く、私の隣に座った欧州人と思われる人は、電話で「今アキュパンクチュアの所に来ている」と言っていました。

 「アキュパンクチュア(Acupuncture)」とは、はり治療のことです。

 海外でも、はり治療は人気が高く、ランナーに対し知名度が高いことが伺えます。

 しばらく見ていましたが、殆どのランナーは、私と同じく、ふとももの裏側やふくらはぎの痛みを訴えていました。

 私の前に座った若者は、はり治療は初めてだと言っていました。

 はり治療の怖さよりも、足が痛くて「わらをもすがる思いだ」と言っていました。

 今日はどうしているでしょうか。

 この時は、私も同じような思いでした。

 岩元先生が、「清野先生、治療を受けていって下さい。」と言ったので、私も治療を受けることにしました。

 私も東京都鍼灸師会の会員です。

 ボランティアの手伝いもしないで治療を受けることは少し気が引けましたが、知らない先生が多かったので、並んでいました。

 治療するベッドは12あり、1ベッド2人の先生が担当していて、そのうち知っている先生は1人だけだったのに、なんとその先生に治療をしていただくことになりました。

 写真が、治療を受けているときのものです。岩元先生が突然私に声を掛け、撮影してくれました。

 治療をして下さった先生は、私より先輩の先生でしたが、笑って声を掛けていただき、「私も申し込んだんだけど、はずれたんですよ。」と言っていました。

 東京マラソンに対する注目度の高さを改めて実感しました。

平成24年2月28日(火) 
 清野充典 記

(平成23年1月1日より毎日更新中)

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Posted by 清野充典  at 02:41Comments(0)東京マラソン 

2012年02月27日

東京マラソン2012 楽しく走れました

 平成24年2月26日(日)に、東京マラソン2012のフルマラソンの部に出場しました。

 抽選倍率が高い中、出場できるだけで幸運だという気持ちでスタート地点に立ちました。

 写真のメダルやバスタオルは、完走した者がもらえる品です。

 
 息子が、10kmの部で完走したので、いただくことが出来ました。

 我が家は、2009年と2010年に、私と長女が10kmの部で完走した時にいただいたメダルがありますので、全部で3個になりました。



 私は、初めてフルマラソンに挑戦しました。

 フルマラソンと言うより、10km以上走るのが初めてです。

10km地点まではイメージがありましたので、3年前とほぼ同じタイムで走ることが出来ました。

 ただ、今回は、1月29日に駅伝出場して以来、修士論文口述試験対策のために殆ど走ることが出来ず、かつ最近2週間は修士論文の修正や義母の葬儀を行うために徹夜や睡眠2~3時間の日が多く、極めて睡眠時間が少なかったことから、体力が追いつかず、スタート2km地点から、肉体との戦いでした。

 2km地点で右膝が痛くなりました。

 道路の傾きが原因の一つだと考え、反対車線に移動したところ、右膝の痛みが軽くなりました。

 そのあと、1km7分ペースで走ることが出来たのですが、8㎞地点で、今度は左太ももの後ろが痛くなりました。右膝をかばって走っていたために出た痛みです。

 10kmの関門を無事超えところで、初めてトイレに入りました。日比谷公園横のトイレがすいていることは2年前に確認していましたので、予定通りの行動でした。

 しかし、ここからが未知の距離です。

 両足の痛みが強まり、急に失速しました。

 1kmが遠く感じる様になり、1km8分から9分台に落ちてしまいました。

 また、スタートから2時間以上経過し、空腹を感じ始めました。ここで何か口に出来たら力が出たような気がします。

 走りながら何かを食べているランナーがいました。ああ、こんな準備も必要なんだなと思いました。

 15.4kmの関門の少し手前で、「あと2分半だよ」と係員から声を掛けられました。トイレへ行ってロスした時間が頭に入っていませんでした。

 ここで通過できなかったら大変と思い、あわてて必死に走りました。1分半ほどを残しての通過でした。通過する際、思わず立ち止まって、写真を撮りました。

 この関門は、品川駅前近くです。稀勢の里の大関昇進披露宴でグランドプリンスホテル新高輪に来た際、ここまで走ってくるんだなあと思い、歩道橋に上がり、景色を頭の中にインプットしていたので、すぐ解りました。

 でも、逆に、良くここまでこれたと思い、少し安心感がありました。そのことで弱気になったのかもしれません。

 この時点で、20kmの関門を超えるのは無理だなと思い、少し歩いてしまいました。ちょっと心が折れかり、もうここで休むと楽になるなあと思ったとき、沿道の方からにっこりと笑顔で声を掛けられ、チョコレートとクッキーをいただきました。

 とてもおいしかったです。チョコを食べたら身体に力が入るようになり、戦う気持ちがよみがえりました。

 両手に沢山チョコとクッキーを握りしめ、一個づつ味わって食べながら、再び走り始めました。

 痛い足を引きずりながら、20kmの関門を目指しました。この間、沿道の声援がものすごく、とても力になりました。

 実は、当初の目標は22km地点で配給されるバナナを食べることでした。

 ここまで行けたら完走できるかもしれない、と密かに思っていました。
 
 友達もその地点で待っていてくれています。残り3kmは沿道の声援を背に、必死に走りました。18km手前より伴奏してくれた長女にタイムを聞きながら、関門を目指しました。

 沿道で小さなお子さんが何人も「アメがあります」といって手を差し伸べてくれます。でも、沿道に進路を移して受け取る余裕がありません。「ごめんね、ありがとう。そこまで行く体力がないんだ。ごめんね。」と何度も言いながら、必死に足を前に進めました。

 ようやく「20」の表示が見えました。その時点で残り2分でした。全力を振り絞って20km地点に近づいたそのとき、係員がタイムのラップ計測をするコンピューターのラインを、目の前ではがし出しました。

 東京マラソン2012が終わった瞬間でした。

 写真が、20km地点から400メートル先の関門までとぼとぼ歩いて到達したときに映した写真です。関門まで、4~5分遅かったようです。

 厳しい生活条件の中、大会参加に向け、自分なりに精一杯調整をして出場しました。

 東京マラソン2012は、3時間30分足らずの戦いでしたが、ベストを尽くしました。

 また、沿道の声援は、ユーモアな声援も多く、都民の皆様と一体になって走っている気持ちになれました。

 とても楽しかったです。

 次回出場する機会があったら、必ず完走したいと思います。

平成24年2月27日(月)
 清野充典 記  


Posted by 清野充典  at 11:44Comments(0)東京マラソン 

2012年02月26日

東京マラソン2012 スタート

 第6回目の東京マラソンがスタートしました。

 スタート時間は、9時10分です。


  参加者は、男性28,171人、女性7,783人、合計36,407人です。

 参加人数が多いため、私がスタート地点に立ったときは、写真のタイムを見てお分かりの様に、概ね20分が経過していました。
 
 完走するためには、1㎞8分ペースが必要です。スタート時のロスタイムに30分当てられておりますが、この時点では10分しかハンディキャップタイムはありません。


 速く走る自信がありませんので、この時間は、トイレに行く時間で消えてしまいます。

 いろいろな思いを抱えながら、大会の雰囲気を楽しみつつのスタートでした。


清野充典 記







  


Posted by 清野充典  at 09:28Comments(0)東京マラソン 

2012年02月25日

明日は東京マラソン2012 に出場します

 明日の平成24年2月26日(日)に、東京マラソン2012兼第30回オリンピック競技大会(2012/ロンドン)代表選手選考競技会が行われます。

 東京マラソンが行われるのは6回目になります。2009年の東京マラソン2009に、10キロの部に出場し完走しましたが、フルマラソンは初めてです。10km以上走るのも今回が初めてです。

 明日は天気が良いようです。完走を目指し、大会を楽しみながら走りたいと思っています。

 私のゼッケンは、「K45772」です。「K」というのは、スタート時の順番です。

 Aは、招待選手です。優勝が圏内にある人たちといえます。
 Bは、おそらく、招待選手ではないけどとても速い人たちでしょう。
 Cは、2時間30分以内で走れる人たちだと思います。
 Dは、芸能人?お金を払って走る人?かな?
 Eは、10kmの部です。私の息子も出場します。
 F以下G・H・J・Kが、完走予想タイム自己申告順だと思います。

 6時間30分以内で走れる人が基準です。私は6時間と書きました。「K]の人は、皆初マラソンではないでしょうか。

 スタートまで15~20分かかると思います。

 一般人のマラソンは、9時10分スタートです。私がスタートラインを通過するのは、おそらく9時30分頃でしょう。

 最初から最後尾のスタートとなりますが、2009年の経験ではスタート時に人ごみの中を走るのは大変だったので、かえっていいかなと思っています。

 5kmごとの関門は、常にぎりぎりとなるでしょうが、なんとかゴールまで走り切りたいと思います。

平成24年2月25日(土)
 清野充典 記
 

  


Posted by 清野充典  at 12:03Comments(0)東京マラソン 

2012年02月24日

修士論文を提出しました

 指導教官との協議が終わり、ようやく修士論文を提出することができました。



 午前10時に原稿を印刷所に持ち込み、3時間という超特急で完全製本して貰いました。締め切りは27日(月)ですが、この方法しか締め切りに間に合わなかったため、特急製本という形を選択しました。

 27日は東京マラソンの翌日なので、歩けるかどうかわからない不安もあります。結果的に、一番いい形で手続きを終了することが出来ました。

 口述試験終了後も山あり谷ありでしたが、やっと修士の学位審査をしていただくための条件を揃えることができました。

 あとは、3月5日の修了発表を待つだけです。

平成24年2月24日(金)
 清野充典 記
  


Posted by 清野充典  at 15:19Comments(0)大東文化大学大学院

2012年02月23日

東京マラソン2012 に出場登録しました

 東京マラソン2012の登録受付が始まりました。今日から25日まで行われます。

 息子と東京ビックサイトへ行ってきました。

 大学1年生・18歳の息子は10㎞の部、51歳の私は42.195㎞の部に出場します。

 16日の修士論文口述試験以後、論文を訂正する日が続いています。今日も大学院へ行き、教授と修正箇所について話し合っていました。

 お葬式も重なり、17日以降は殆ど寝ていません。練習も出来ていません。

 でも、概ね論文作成が終わったので、24日25日に睡眠を良く取って大会に臨もうと思っています。

 心と体の不安を、呼吸で解消しようと考えています。

清野充典 氣  


Posted by 清野充典  at 17:47Comments(0)東京マラソン 

2012年02月22日

ご参列に深謝を申し上げます

 平成24年2月19日(日)午前4時2分に、私の義理の母が逝去しました。

 享年74歳でした。

 20日(月)の18時から19時にお通夜、21日(火)の13時30分から14時30分に告別式を行いました。

 お忙しい中、ご参列を戴きました皆様に深く御礼を申し上げます。

 また、多くの弔電や御芳志を賜りましたことに対し、改めて御礼を申し上げます。

 本当にありがとうございました。

清野充典 合掌  


Posted by 清野充典  at 09:11Comments(0)清野充典雑話

2012年02月21日

大東文化大学大学院生活を振り返って12 『周易』

 6年前の2006年4月、大東文化大学大学院文学研究科博士課程前期課程に入学しました。専攻は中国学です。

 中国学とは、中国の哲学・思想、文学、史学、語学、芸術、日本の漢学等を総合的に研究する学問です。

 その中で、四書五経(ししょごきょう)は、漢学の基本書です。四書五経とは、五経である『易経』・『書経』・『詩経』・『禮記』・『春秋』と四書である『論語』・『孟子』・『大学』・『中庸』を指します。

 この中で、1番重要な書物は『易経』です。その『易經』は、池田知久教授に指導を受けました。

 池田教授は、東京大学出身です。東京大学名誉教授であり、昨年まで日本中国学会の会長を務めていました。

 早くから出土資料の研究を始めた、日本が世界に誇る研究者です。

 出土資料とは、主に中国の皇帝や権力者たちの墓から出た文物のことです。

 近年中国学研究においては、既存の書物に書かれてある内容が覆されるような資料がたくさん出土されているため、出土資料の研究が盛んです。新事実の発見にも欠かせないため、必要不可欠な研究となっています。池田先生は、その最先端研究において第1人者です。それだけに、授業内容のレベルはとてつもなく高く、指導内容もとてつもなく厳しいものでした。

 池田先生の授業の教材は、『上海博物館所蔵戦国楚簡』の中にある「易」の資料です。

 竹簡という竹に書かれた文字を読みました。楚簡ですので、楚の時代の文字です。

 私たちが今使っている字は、漢字ですので「漢」の時代に書かれた字ですが、その前の時代が「秦」で、その前が春秋戦国時代です。楚は春秋戦国時代の国です。

 楚の文字を読むためには、まず文字を解読する必要があります。1文字解読するために何冊もの辞書を要します。慣れると5分で調べることができると先輩たちは言いますが、初心者は約1時間近くかかります。それを90文字担当しました。

 担当教官である林教授の『周禮(しゅらい)』を予習復習するだけでもアップアップなのに、その上「楚」の時代に書かれた『周易』です。

 更に過酷な日々が続きました。(つづく)

平成24年2月21日(火) 
 清野充典 記

(平成23年1月1日より毎日更新中)

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Posted by 清野充典  at 01:00Comments(0)大東文化大学大学院

2012年02月20日

大東文化大学大学院生活を振り返って11 『周禮(しゅらい)』

 6年前の2006年4月、大東文化大学大学院文学研究科博士課程前期課程に入学しました。専攻は中国学です。
 
 私の担当教官は、京都大学出身で、中国医学が専門です。中国哲学を背景とした鍼灸医学を探求することが目的で入学しました。

 中国最古の医制度が記載されている『周禮(しゅらい)』を、6年間読みました。

 『周禮(しゅらい)』を読むためには、四書五経(ししょごきょう)がわからなければ、読み進めることはできません。

 四書五経は、漢学の基本書です。大東文化大学では、中国学科の学部生が4年間で学ぶ内容です。

 四書五経とは、五経である『易経』・『書経』・『詩経』・『禮記』・『春秋』と四書である『論語』・『孟子』・『大学』・『中庸』を指します。日本・中国・韓国の年号は、これらの書物の中から取り出した二字の熟語です。三国の学者が、いずれの国にも重ならないように考え、決定しています。年号を考えるのが中国学を研究している中国哲学が専門の学者です。

 『周禮(しゅらい)』は、『禮(れい)』の一つです。中国古代の儀礼を記載した書物である『禮』には、『禮記(らいき)』・『儀禮(ぎらい)』・『周禮(しゅらい)』の三冊があります。後世、『禮記(らいき)』が五経として重要視されるようになりましたが、『禮記(らいき)』を理解するには、『周禮(しゅらい)』を読む必要があります。

 四書五経は、中国学を学ぶ者にとって、基本の書物です。したがって、中国医学を研究する者にとっても、学ぶべき書物と言えます。

 『周禮(しゅらい)』を読むということは、以上に挙げたすべての書物に目を通すことになります。五経の中で、『易経』は入学以前から研究しており、『易』を深く知りたかったことが入学の動機でしたので、引用文が出てきてもさほど苦労しませんでしたが、『書経』・『詩経』は内容が紀元前1000年くらいの時代なため、読みづらい文章がとても多くて苦労しました。『禮記(らいき)』は注釈書が多いため、なんとか調べることができましたが、『儀禮(ぎらい)』は注釈書が全くなく、苦労しました。『春秋』は、他の先生の授業や学部生の授業に出て知識の補充をしました。

 予習しても予習しても、よく判らず、授業に出ても調べて出した答えがすべて直されるような状態が、5年ほど続きました。

 大学院に入学して6年目になり、ようやく少しわかるようになった気がしますが、難しいことに変わりはありません。

 苦しい苦しい6年間でした。担当教官には、できの悪い生徒だったため、ずいぶんご迷惑をおかけしたと思いましたが、最後まで見はなされずにご指導をいただくことができました。

 授業中は、とても厳しく、入学以来3年間は声をかけてもらうことがほとんどありませんでした。大学院4年目になり、私の出した答えにはじめて笑いました。授業が終わり、他の院生が「はじめて笑いましたよね。」と話題になるほどでした。少しは認めてもらえたのでしょうか。出会ってから6年目のことでした。

 大学院に入学して5年目になり、ようやく授業中にほかの院生と同じように声をかけてもらうようになり、少し笑いながら話をさせていただくようになりました。

 そして、大学院5年目の最終の授業である2011年1月に、はじめて修士論文の指導をしていただきました。この指導がまたドンとびはねた内容でした。本当に知らないことが多いということを知らされました。林教授に出会ってから7年目のことです。

 1年間論文の指導を毎週受けるたびにその繰り返しでしたが、大学院6年目の秋である2011年10月頃には、初めて世間話をさせていただき、12月には笑って「まあ、悔いのないようにやるんだな。」と声をかけていただきました。出会ってから8回目の冬でした。

 林克教授にはとても感謝しております。(つづく)

平成24年2月20日(月) 
 清野充典 記

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2012年02月19日

大東文化大学大学院生活を振り返って10 授業開始

 6年前の2006年4月、大東文化大学大学院文学研究科博士課程前期課程に入学しました。専攻は中国学です。
 
 私の担当教官は、中国医学が専門です。中国哲学を背景とした鍼灸医学を探求することが目的で入学しました。

 入学初日に、教授が1冊の本を取り出し、 「この本をこれから読むから」と言い渡されました。それは『周禮(しゅらい)』という本でした。漢字がびっしり書いてあります。句読点や返り点は一切書いていない「白文」というものです。

 この本は、中国古代における国の制度が書かれています。医療の制度に関係することも書かれており、その内容は中国最古の医制度と考えられています。

 「こんな本を読めるようになるのかなあ」と即座に思いました。「どうしたら読めるようになるのですか」と質問したところ、「読むことだよ」と回答されました。ただただ絶句です。

 それから6年間、泳ぎ切る事がとても困難な漢文の海へ飛び込みました。(つづく)

平成24年2月19日(日) 
 清野充典 記

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2012年02月18日

大東文化大学大学院生活を振り返って9 大学院入学

 6年前の2006年4月、大東文化大学大学院文学研究科博士課程前期課程に入学しました。専攻は中国学です。

 入学式に出席したときは46歳でした。

 同級生は5人おり、全員文学部卒業の人でした。そのうちの1人が40歳代の社会人、1人は20歳後半で1度社会人を経験し文学研究科の研究生を1年経ていました。別の1人は中国語学科卒で、残りの2人が中国学科卒です。さすがに大学院だと思いました。学生の経歴が、バラエティーに富んでいます。

 先輩も、長年在籍している人ばかりでした。

 日本では、文学博士取得が、博士の中で最も学位取得が難しいとされています。文学博士も100人足らずと聞いています。昔は、大学で教員をしながら研究を続け、退官間際になり、ようやく論文を提出して文学博士を取得する人が殆どだったそうです。いわば、博士は一生を掛けて研究した証です。

 30年以上研究をしてようやくなれるのが博士です。私が子どもの頃は「末は博士か大臣か」と言ったものです。

 理系の大学院では、概ね大学院を修了した時点で学位を取得しています。そんな感覚で入学したので、入学初日に「院生会」において大学院生たちと懇談をしながら酒を酌み交わしたときは、大きな違和感を覚えました。

 「自分は、2年で論文を書いて、大学院を終了するぞ」と心の中で思ったものでした。

 しかし、現実はそう甘くはありません。いざ、大学院生活を初めて見たら、知らないことだらけでした。

 1年目は、卒業する単位を満たすために、週3回大学院へ通学しました。勉強しても勉強しても、予習が追いつきません。授業に参加しても、ちっとも解りません。

 1年目の秋頃には、少しずつ咳が出始め、だんだん精神状態をコントロールすることが難しくなりました。

 2006年11月末頃、あるとき、自分がおかしくなっていることに気付きました。当院のスタッフに聞いても、「そうかもしれない」と言います。生まれてはじめて「うつ」状態に陥りました。

 折しもその頃は、清野鍼灸整骨院20周年記念イベントを開催しようと思い準備を進めていたときでした。

 2007年2月2日(木)に、調布クレストンホテルで記念講演会・記念祝賀会を行ったときは、両耳が殆ど聞こえなくなり、相手の動きや口のかたちを見て反応し、唯笑っているしかできない状態でした。

 体力の限界を超えるほど、大学院の勉強は大変でした。その後の5年間もズーと大変でしたが、一番体調を崩していたのがこの頃でした。

 聴力は、養生が出来ずかつ大学院生活を支えてくれているスタッフには治療を頼みづらかったこともあり、1か月近く聞こえづらい状態が続きました。

 ちょうどその頃、大好きなミュージカルがありました。気分転換にミュージカルを見たところ、初めは演奏する音がウォンウォンしていましたが、ステージに感動して涙した後で、耳の聞こえ具合が治っていることに気付きました。

 精神的ストレスが、音楽や観劇で解消されることが、身を以て体験できました。

 2007年の3月になり、少しずつ咳が収まりました。

 大学院2年生(47歳)、3年生(48歳)、4年生(49歳)と学年が進むにつれ、勉強難しくなると咳は出ますが、1年生の時に出たような症状は出ませんでした。

 学問が深まるほど大変さは以前以上に増してきますが、精神が強くなったことと研究中に呼吸をおだやかにすることが出来るようになったことが大きな要因だと思います。

 次回からは、大東文化大学大学院文学研究科中国学専攻博士課程前期課程で何を学んだのか綴りたいと思います。(つづく)

平成24年2月18日(土) 
 清野充典 記

(平成23年1月1日より毎日更新中)

※3日に一度「清野鍼灸整骨院府中センターです」を更新しています
※最新最先端の鍼灸治療・東洋医療について、詳細に書いています
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Posted by 清野充典  at 14:13Comments(0)大東文化大学大学院

2012年02月17日

大東文化大学大学院生活を振り返って8 恩師河上学長

 6年前の2006年4月、大東文化大学大学院文学研究科博士課程前期課程に入学しました。専攻は中国学です。

 入学したときは46歳でした。

 38歳(1998年)の頃、大学院に入学し研究活動をしようと思ったときがありました。

 そのことを唯一相談したのが、私の母校である明治鍼灸短期大学・明治鍼灸大学(現明治国際医療大学)の初代学長でかつ鍼灸学部同窓会初代会長である河上邦治明治鍼灸大学名誉学長です。

 勲二等を受賞された河上先生は、大学設立に最も尽力した元文部省の官僚で、近代日本における「東洋医学の歴史」の扉を開けた人です。河上先生の力なくしては、今の鍼灸界はなかったといっても過言ではありません。

 河上先生より、「鍼灸界の将来を担う同窓生をまとめ、未来の力となるように活動してくれ」と頼まれました。それ以来31年にわたり、鍼灸学部同窓会「たには会」の運営に携わっております。

 河上先生は、たには会会長であったことから、親しく話をさせていただく機会が、数多くありました。先生は、「清野君、大学が5校以上になったら、医学部と対等に話が出来る環境が来る。その時が、鍼灸大学の同窓生が活躍するときだ。」と言っていました。現在、鍼灸学部を持つ大学が11校になりました。折しも、統合医療が叫ばれています。先見の明を持った偉人であったと思っています。

 その河上先生に、大学院で研究したいと話をした際、即座に「やめとけ、やめとけ。」と言われました。その後に続けて何故やめた方が良いのかを話してくださっていましたが、今は記憶にありません。ただ、その時の口調が強かったことだけをよく覚えています。

 40歳(2000年)から研究を始めましたが、河上先生の言葉が強く心に響いていたので、43歳(2003年)の時茨城大学へ通学し始めたときも、自分で学問を深めたいぐらいの気持ちでいましたので、そのことを河上先生に話すことはありませんでした。

 河上先生は、2004年7月25日に享年94歳で亡くなりました。亡くなる2日前に、先生は44歳の私に電話をくれています。いつも通り元気な声でした。「清野君、元気でやっているか。まあ、頑張りたまえ。」と、いつものように私を気にかけてくれた電話でした。何故その時私に電話をくれたのか、今でも時折思い起こすことがありますが、答えは出ません。

 ちょうどその時期は、大学院へ本当に行くか止めようか悩んでいたときでした。先生が言われた「やめとけ、やめとけ。」の声が、いつも心に残っていました。

 1年後の2005年7月25日に、河上先生の1周忌を迎えて墓参りをしに行った時、鍼灸学士の試験を受けたことと大学院の受験を決めたことを報告しました。45歳の時でした。

 その翌年の2006年4月に、46歳で大東文化大学大学院に入学しました。あれから6年が経ち、昨日の平成24年2月16日に、修士論文の口述試験を受けました。現在51歳です。

 自分では、出来る限りのことをして書きましたが、実力不足を痛感しました。この6年間毎日その繰り返しでした。それでも必死に食い下がり、常に前を向いてきましたが、昨日は久しぶりに落ち込みました。

 この気分は、大学院入試で面接試験を受けて以来です。

 大学院に入学して初めて、河上先生の「やめとけ、やめとけ。」の声が聞こえました。死後7年7か月近くが経ち、初めて先生が「やめとけ」と言った意味が解った気がします。

 研究は、苦労が多く、体力も消耗します。仕事も充分に出来なくなり、家庭生活も満足に送れなくなります。お金もかかります。そんなことも解らないで研究生活を始めたのか、と河上先生に言われそうです。そのことに目を向けなかったから今まで続いてきたのでしょう。

 実は、私は思慮分別が足りない人間だということを証明しているのかもしれません。

 今日も、教授たちに言われた部分を訂正し、より満足のいく論文作成に取り組んでいます。

 「やめとけ、やめとけ。」の意味をかみしめながら、前へ進んでいます。 

 大東文化大学大学院文学研究科中国学専攻博士課程前期課程の学生生活が続いています。(つづく)

平成24年2月17日(金) 
 清野充典 記

(平成23年1月1日より毎日更新中)

※3日に一度「清野鍼灸整骨院府中センターです」を更新しています
※最新最先端の鍼灸治療・東洋医療について、詳細に書いています
※東洋医学の適応範囲をお知りになりたい方は、是非ご一読いただきたく存じます

  


Posted by 清野充典  at 00:44Comments(0)大東文化大学大学院

2012年02月16日

修士論文口述試験が終わりました

 大東文化大学大学院の修士論文口述試験が終わりました。

 一時間半近い緊張の時間が終わりました。

 想像通りというか、想定以上に、出された質問に対し、絶句のし通しでした。

 今日もまた、実力のなさを痛感しました。

 山のように、訂正するところがあります。

 27日までに、文章の作成をし直さなければいけません。

 今は、院生室に来て、他の院生と話しながら気を取り直しています。

平成24年1月16日(木)
 清野 充典 雑記  


Posted by 清野充典  at 14:34Comments(0)大東文化大学大学院

2012年02月15日

大東文化大学大学院生活を振り返って7 研究の動機

 6年前の2006年4月、大東文化大学大学院文学研究科博士課程前期課程に入学しました。専攻は中国学です。

 私が卒業した大学は、世界で初めて設立された鍼灸医学専門の教育機関である明治鍼灸短期大学です。

 青森県立弘前高校に入学し、3年生になり、医学部を受験したいと父親に申し出ました。

 大正4年生まれで当時62歳だった父親は、若いときから肺病を患い、闘病生活を送っていた経験から、西洋医学・医療の有り様を快く思っていませんでした。しばらくして、「これからは東洋医学の時代だ。この大学へ行け。」と、鍼灸大学の受験を言い渡しました。この当時は、親の言うことには逆らえない時代でした。

 大学初の卒業生として、昭和62年に東京で開業しました。今から25年前です。東洋医学の普及という大学の建学精神と親の意向を一身に受け、毎日鍼灸医学の探究に努力してきました。日本で唯一の学術団体である全日本鍼灸学会には、卒業して以来30年間毎年参加しています。47都道府県すべてにある鍼灸院・整骨院を巡り歩き、日本における鍼灸医療の実情を探求しました。

 開業した年に始まった世界鍼灸学会学術総会(現在3年に1度開催)にも毎回参加しています。全7回出席しているのは、日本では私と筑波技術大学形井秀一教授の2人だけです。中国・韓国・台湾等のアジア諸国や欧米へ何十回も足を運び、世界中の国々の鍼灸医療状況を視察しました。(詳しくは清野鍼灸整骨院ホームページ「日本から世界へ」のコーナーをご覧下さい)

 40歳になり、既存の書物より学ぶものはないなあと思い始めていた2000年6月の学会で、母校の恩師である明治鍼灸大学(現明治国際医療大学)教授の北出利勝医学博士より、「学会で発表してみないか」と言われました。今まで共同発表をしたことはありましたが、自分で主になり論文を作成したことはありませんでした。

 もう、自分の知りたいことは自分で調べるしかないと思っていた頃だったので、これからは勉強をするのではなく硏究をしようと決心しました。不惑の年でした。

 2000年11月に第5回世界鍼灸学会において、英文で発表しました。初めてした作業はとても苦しい毎日でしたが、充実感がありました。その翌年より国内の学会では毎年論文発表をしております。

 2001年2002年と国内の学会で論文発表しましたが、研究すればするほど知らないことが多くなります。学ぶことがないなあと思っていた自分の心はすぐに消し飛び、独学で勉強することに限界を感じていたとき、真柳誠茨城大学教授に出会いました。日本東洋医学会で発表した際、座長をしていただいたのがきっかけです。

 2003年より、茨城大学へ通学することを決意し、2006年より大東文化大学大学院に入学しました。今日は、2012年2月15日です。

 大学へ通学し始めてから、8年になります。研究を始めてから12年近くになりました。

 ようやく、自分が思い描いていたことを約19万の文字にすることが出来ました。

 明日は、修士論文の口述試験です。

 自分の出した答えに、超一流の研究者たちよりどんなことを言っていただけるのか、怖くもあり楽しみでもあります。

  大東文化大学大学院文学研究科中国学専攻博士課程前期課程の学生生活は、明日の口述試験が終わってから綴りたいと思います。(つづく)

平成24年2月15日(水) 
 清野充典 記

(平成23年1月1日より毎日更新中)

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Posted by 清野充典  at 10:14Comments(0)大東文化大学大学院

2012年02月14日

バレンタインチョコレートを貰いました(^○ ^)

 今日は、バレンタインデーですね。

 ベルギーチョコレートをもらいました。今まで食べたことのない様な味わいです。

 今日は、何の日で、いつからチョコレートを送るようになったかなんてどうでも良いですよね。

 控えめな日本人が気持ちを表現する日になっているような印象です。

 一人でも多くの人が、幸せを感じる日でありますように。

清野充典 雑記  


Posted by 清野充典  at 09:34Comments(0)清野充典雑話

2012年02月13日

大東文化大学大学院生活を振り返って6 入学面接試験

 6年前の2006年4月、大東文化大学大学院文学研究科博士課程前期課程に入学しました。専攻は中国学です。

 大学院の入学試験初日は、筆記試験です。中国語が終わり、次は、漢文読解、哲学文学歴史等の問題です。

 哲学・文学の設問課題は何とか解けましたが、哲学書・歴史書の原文(白文)が2題出題され、「全文を訓読せよ。」とありました。私にしてみれば途方もない量の漢文でした。これには四苦八苦です。

 何とか書き込み、初日を終了しました。

 2日目は面接試験です。

 面接室に入ると、大東文化大学が誇る教授陣がずらりと並んでいました。8人くらいいたと記憶しています。

 大東文化大学は、定年が70歳です。東京大学の天下り校とも言われ、中国学で名をはせた人は最期に大東文化大学で終了する構図になっているらしく、有名でかつ学識が高いためか、一癖も二癖もある人ばかりです。

 担当教官である林克教授は、サテライトで1年間休暇中のため、審議には加わっていませんでした(私の指導だけは、ご厚意で、サテライトで大学をお休みしていた間の1年間もしてくれていました)。

 この時の様子は鮮明に記憶に残っています。

 前日の試験結果が既にわかっており、先生たちはその上で盛んに質問をしてきます。

 中国語は、正解率が8割を超えていたらしく、語学に対しての話はあまり出ませんでしたが、漢文読解があまり出来ていなかったらしく、手厳しい発言が相次ぎました。

 約30分あまりの面接時間でしたが、長い長ーい時間に感じられました。同校の学部生でもないため、教授たちにしてみれば殆どの人が私と初対面です。しかも、45歳です。理系出身の年寄りが何をしに来たんだと言わんばかりでした。一人だけ、聴講生として1年間授業を受けていた東京大学名誉教授でもある教授が知った顔だったので、その人の顔ばかり見ていたような気がします。唯一、批判にさらされ困っていた私に助け船を出してくれていました。

 分かりやすく言うと、ぼろくそに言われて、心はぼろぼろずたずたでした。

 「あー、絶対落ちたな。」と思って、とぼとぼ家に帰ったのを覚えています。

 2月21日に、とりあえず合否の確認をするために、大学院事務局へ行ってみたところ、私の受験番号がありました。

 この時の気持ちは、嬉しいと言うよりも、なんか複雑で、入学してやっていけるかという不安ばかりが先に立っていて、素直に喜べませんでした。

 それでも、3年あまり努力した結果が、大学院合格だったので、「まずはOKか。」と思った記憶があります。

 そして、2006年4月に大東文化大学大学院文学研究科中国学専攻博士課程前期課程の学生になりました。(つづく)

平成24年2月13日(月) 
 清野充典 記

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Posted by 清野充典  at 17:36Comments(0)大東文化大学大学院

2012年02月12日

大東文化大学大学院生活を振り返って5 入学筆記試験

 6年前の2006年4月、大東文化大学大学院文学研究科博士課程前期課程に入学しました。専攻は中国学です。

 大学院の入学試験は、2月中旬の春季に受験しました。2日間にわたり行われ、初日は筆記試験、2日目は面接試験です。

 大東文化大学は、建学の精神である「東西文化の融合」を掲げた、日本で唯一の儒学を研究する教育機関です。今は8学部19学科と8つの研究科がありますが、その中で最初に出来たのが文学部の中国学科です。大学院も、文学研究科中国学専攻が最初です。

 中国学分野においてはTOP校であることから、唯一社会人入試制度がありません。語学試験も全研究科中唯一辞書持ち込み不可です。入学試験も東京大学より難しいと言われています。緊張して初日を迎えました。

 試験会場には、日本文学研究科の人も一緒でした。私より高齢と思われる人がひとりいて、何故かちょっとほっとしました。

 中国学専攻の修士課程受験者は3名、博士課程受験者は1名でした。

 最初の科目が中国語です。全文中国語で書かれた紙が、1枚、目の前に来ました。出題は、「全文を訳せ。」です。制限時間は60分です。

 これは大変だと思いながら、隣にいる博士課程の人に渡された問題を見たら、2枚ありました。制限時間は90分のようでした。後期課程だとあんなに解かなければ行けないのかァと思い、これでもまだ楽な方なんだと気を取り直し、原文を読み始めました。

 何行か読みましたが、何を書いているかさっぱりわかりません。半分近く読んでも解りません。30分近くが経ち、3分の2ほど読んでいる内に、何回も出てくる同じ言葉の意味が、急にひらめいてわかりました。

 それは、「ペヨンジュ」という人名でした。「冬のソナタ」というドラマがヒットし、韓流ブームが起きているという内容のものでした。そのことに気付いて最初から読み返したらパズルのように紐解くことが出来、何とか制限時間内にほぼ解答することが出来ました。

 1科目は何とかクリアすることが出来ましたが、30分経っても一文字も訳すことが出来ず、ひやひやものでした。

 ほっとするまもなく、その次は、漢文読解、哲学文学歴史等の問題です。(つづく)

平成24年2月12日(日) 
 清野充典 記

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Posted by 清野充典  at 14:04Comments(0)大東文化大学大学院

2012年02月11日

大東文化大学大学院生活を振り返って4 鍼灸学士取得

 6年前の2006年4月、大東文化大学大学院文学研究科博士課程前期課程に入学しました。専攻は中国学です。

 その1年前である2005年3月までに、32単位を取得し、鍼灸学士を受験をするための論文を書き上げ、大学評価・学位授与機構に提出しました。

 ここに至るまで、本当に大変でした。深く考えずにこの生活をし始めていたので、終止楽観的でしたが、結果的に苦しい毎日でした。

 しかし、ここで終わりではなく、学位を取得するためには試験を受けなければいけません。提出した論文に対する試験が6月に行われました。

 試験に対する対策も大変でしたが、試験を受けるための段取りも大変でした。試験当日は、全日本鍼灸学会の開催期間中でした。学会が行われる場所は福岡だったので、発表する日日と試験を受ける場所が問題になります。いろいろ調べた結果、受験場所が選択でき、九州大学で受験出来ることが解りました。

 土曜日に学会で論文発表し、日曜日に九州大学へ行きました。

 試験場には、様々な分野で勉強してきたと思われる社会人が沢山いました。誰も知らない人ばかりでしたが、みんな同じような苦労をしてここに来ているんだろうなあと思い、何故か皆に共感を覚えました。みんな受かればいいなあと思いながら、試験を受けました。同じ会場に、鍼灸学士を目指していた人はいませんでした。

 後で解ったのですが、鍼灸学士の受験者は12人で、合格者は確か7人でした。この年の時点で、大学評価・学位授与機構より78名が鍼灸学士を授与されています。受験者は、大学や専門学校教員ばかりで、臨床を専門としていた者では、私が初めての取得者だったと思います。

 試験結果は、8月下旬に来ました。合格通知を見て、ほっとしたことを覚えています。「これで、大学院が受験できる」、そう思ったものでした。

 この年の2005年4月より、大東文化大学文学部中国学科の聴講生として、毎週埼玉県高坂市にある校舎まで約2時間半かけて通学し、大学院受験に備えていました。

 漢文読解の基礎、中国文学の基礎、中国哲学思想に関する基礎、中国語の基礎を学ぶ毎日です。9月に大学院の前期入学試験がありましたが、問題が解けるほど実力がついていません。

 2月の後期試験を目標に、ひたすら勉強しました。大学入試の問題集を解き、高校の歴史に関する教材を読み、中国語の文法書をこつこつ勉強しました。これもまたつらくて苦しい毎日でした。

 そして、2006年の2月を迎えました。(つづく)

平成24年2月11日(土) 
 清野充典 記

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Posted by 清野充典  at 16:28Comments(0)大東文化大学大学院

2012年02月10日

大東文化大学大学院生活を振り返って3 入学の準備

 6年前の2006年4月、大東文化大学大学院文学研究科博士課程前期課程に入学しました。専攻は中国学です。

 その2年前である2004年に、茨城大学の教授である真柳誠教授のお導きにより、現在指導教官である大東文化大学大学院の林克教授と面談しました。大東文化大学にお伺いし、初めてお会いした際、私の書いた論文をお見せし、いろいろ話をした後、「今は大学院で研究する実力がないし、入学試験に合格することも出来ない。」と申し渡されました。

 その上で、入学試験に合格するために勉強しなければ行けない書物の指導を受け、その本を読み始めました。その内容はとてつもなくハードで「えっ」と絶句するものばかりでした。また、1年間、大東文化大学文化大学文学部の授業を聴講生として受講するように申し渡されました。約2年あまり、苦しい苦しい毎日が始まりました。

 紹介してもらった本は、1ページ読むために約1時間を要しました。何度も何度も辞書で文字を調べないと読み進むことが出来ません。その本は600ページ以上ありました。しかもその本を3か月で読むように言われたのです。とてつもない高い壁でした。結局その本を読了するまでに10か月かかりました。

 また、大東文化大学の1~2年が通学する校舎は、埼玉県髙坂市にあり、調布から片道2時間半ほどかかります。

 茨城大学は、車で片道1時間半から2時間でしたので(時折渋滞で3~4時間かかることもありましたが)、それ以上の通学時間が必要でした。勉強を続けるのも体力勝負です。空手道場へ行き体力低下を防ぎ、お酒を殆ど飲まない生活に変わりました。

 大学院に入学するためには、基本的に「学士」の学位が必要です。私の出た学校は明治鍼灸短期大学です。当時、世界で初めて出来た鍼灸医学専門の最高学府でしたが、日本国内では鍼灸医学は学問とは認知されず、また医師会と文部省とで激しい対立があったため、4年制に成りませんでした。そのため、当時「学士」の学位は取得していませんでした。

 1993年(平成4年)より「鍼灸学士」制度が出来ていましたが、大学生にならなければ取得できないため、学位取得は社会人にとって困難な状態にありました。

 茨城大学へ通学し始めた2003年の年より、「医史学」が「鍼灸学士」の学問対象になり、短大時代に取得した単位に32単位積み上げることにより大学評価・学位授与機構の試験を受け、鍼灸学士を取得出来ることを知りました。大東文化大学大学院に入学するための受験資格を得るために、2004年度内に「学士」の取得を目指し、32単位を満たすために2004年より人間総合科学大学にも通学し始めました。

 大学院を受験するための準備に、走り始めました。

 この年は、茨城大学と人間総合科学大学へ通学し、かつ大東文化大学の林教授より出された課題の勉強をする過酷な環境の中で仕事をしていました。人間総合科学大学で、初めて1日中(朝9時から夕方6時頃まで)授業を受けたときは、頭がすっかり泳いでふらふらし、終わったときは宇宙遊泳をしているようでした。長時間深く思考することをしていなかった自分に気付いたことをよく覚えています。今は15~6時間続けて論文を作成していても大丈夫なので、随分実力がついたんだなあと振り返ってみると思います。

 2005年3月までに、32単位を取得し、鍼灸学士を受験をするための論文を書き上げ、大学評価・学位授与機構に提出しました。

 本当に大変でした。

 でも、学位を取得したわけではありません。本番はこれからでした。(つづく) 

平成24年2月10日(金) 
 清野充典 記

(平成23年1月1日より毎日更新中)

※3日に一度「清野鍼灸整骨院府中センターです」を更新しています
※最新最先端の鍼灸治療・東洋医療について、詳細に書いています
※東洋医学の適応範囲をお知りになりたい方は、是非ご一読いただきたく存じます

  


Posted by 清野充典  at 11:57Comments(0)大東文化大学大学院