たまりば

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2012年02月17日

大東文化大学大学院生活を振り返って8 恩師河上学長

 6年前の2006年4月、大東文化大学大学院文学研究科博士課程前期課程に入学しました。専攻は中国学です。

 入学したときは46歳でした。

 38歳(1998年)の頃、大学院に入学し研究活動をしようと思ったときがありました。

 そのことを唯一相談したのが、私の母校である明治鍼灸短期大学・明治鍼灸大学(現明治国際医療大学)の初代学長でかつ鍼灸学部同窓会初代会長である河上邦治明治鍼灸大学名誉学長です。

 勲二等を受賞された河上先生は、大学設立に最も尽力した元文部省の官僚で、近代日本における「東洋医学の歴史」の扉を開けた人です。河上先生の力なくしては、今の鍼灸界はなかったといっても過言ではありません。

 河上先生より、「鍼灸界の将来を担う同窓生をまとめ、未来の力となるように活動してくれ」と頼まれました。それ以来31年にわたり、鍼灸学部同窓会「たには会」の運営に携わっております。

 河上先生は、たには会会長であったことから、親しく話をさせていただく機会が、数多くありました。先生は、「清野君、大学が5校以上になったら、医学部と対等に話が出来る環境が来る。その時が、鍼灸大学の同窓生が活躍するときだ。」と言っていました。現在、鍼灸学部を持つ大学が11校になりました。折しも、統合医療が叫ばれています。先見の明を持った偉人であったと思っています。

 その河上先生に、大学院で研究したいと話をした際、即座に「やめとけ、やめとけ。」と言われました。その後に続けて何故やめた方が良いのかを話してくださっていましたが、今は記憶にありません。ただ、その時の口調が強かったことだけをよく覚えています。

 40歳(2000年)から研究を始めましたが、河上先生の言葉が強く心に響いていたので、43歳(2003年)の時茨城大学へ通学し始めたときも、自分で学問を深めたいぐらいの気持ちでいましたので、そのことを河上先生に話すことはありませんでした。

 河上先生は、2004年7月25日に享年94歳で亡くなりました。亡くなる2日前に、先生は44歳の私に電話をくれています。いつも通り元気な声でした。「清野君、元気でやっているか。まあ、頑張りたまえ。」と、いつものように私を気にかけてくれた電話でした。何故その時私に電話をくれたのか、今でも時折思い起こすことがありますが、答えは出ません。

 ちょうどその時期は、大学院へ本当に行くか止めようか悩んでいたときでした。先生が言われた「やめとけ、やめとけ。」の声が、いつも心に残っていました。

 1年後の2005年7月25日に、河上先生の1周忌を迎えて墓参りをしに行った時、鍼灸学士の試験を受けたことと大学院の受験を決めたことを報告しました。45歳の時でした。

 その翌年の2006年4月に、46歳で大東文化大学大学院に入学しました。あれから6年が経ち、昨日の平成24年2月16日に、修士論文の口述試験を受けました。現在51歳です。

 自分では、出来る限りのことをして書きましたが、実力不足を痛感しました。この6年間毎日その繰り返しでした。それでも必死に食い下がり、常に前を向いてきましたが、昨日は久しぶりに落ち込みました。

 この気分は、大学院入試で面接試験を受けて以来です。

 大学院に入学して初めて、河上先生の「やめとけ、やめとけ。」の声が聞こえました。死後7年7か月近くが経ち、初めて先生が「やめとけ」と言った意味が解った気がします。

 研究は、苦労が多く、体力も消耗します。仕事も充分に出来なくなり、家庭生活も満足に送れなくなります。お金もかかります。そんなことも解らないで研究生活を始めたのか、と河上先生に言われそうです。そのことに目を向けなかったから今まで続いてきたのでしょう。

 実は、私は思慮分別が足りない人間だということを証明しているのかもしれません。

 今日も、教授たちに言われた部分を訂正し、より満足のいく論文作成に取り組んでいます。

 「やめとけ、やめとけ。」の意味をかみしめながら、前へ進んでいます。 

 大東文化大学大学院文学研究科中国学専攻博士課程前期課程の学生生活が続いています。(つづく)

平成24年2月17日(金) 
 清野充典 記

(平成23年1月1日より毎日更新中)

※3日に一度「清野鍼灸整骨院府中センターです」を更新しています
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Posted by 清野充典  at 00:44Comments(0)大東文化大学大学院